森鴎外と舞姫事件研究

林　尚孝

荻原雄一氏の「文学〈研究〉」

　荻原雄一氏は、拙論「エリーゼはユダヤ人ではない」(『鷗外』84号)に対する反論を「ふたたび〈エリス、ユダヤ人論〉」〔以下「ふたたび論」と略記する〕と題して『鷗外』86号に掲載されました。これは先に『通信』165号の「再び林尚孝氏へ」で、拙論を隅から隅まで丁寧に拝読した上で、まとめて私見をのべさせていただくと予告されていた私への反論ですから、期待して拝読しました。しかし、残念ながら、その内容は学問的論争とはほど遠いものでした。さらに荻原氏は、最後にもうこれ以上いかなる反論もしないつもりですと宣言されています。論争を挑まれた氏の側から、幕引きを宣言された形です。私も再論はしないでおこうと考えたのですが、どうにも見逃し得ない箇所があり、『通信』の紙面をお借りしてコメントさせていただきます。

　まず第一に問題にしたいのは荻原雄一氏の「研究者」としての姿勢です。文学研究であろうと、自然科学研究であろうと、新事実の発見を主張するからには、第三者が検証可能な論拠を示すことは、論文作法のイロハのイです。
　先の拙論において、「WeigertもWiegertもみな源は〈ヴァイカント〉で、ユダヤ人のファミリーネームである」と主張されるのであれば、その根拠をデータを添えて提出して欲しいと述べたのも、氏が「『舞姫』再考、エリス、ユダヤ人問題から」(1),(2)で、何の論拠も示さずに、WeigertもWiegertもみな源は〈ヴァイカント〉で、ユダヤ人のファミリーネームである。したがって、エリスもエリーゼもユダヤ人であるとの「新発見」を主張されていたからです。

　ところが「ふたたび論」は、この質問には答え得ず、自説は文献のない伝聞に依拠したものだという驚くべき事実を告白されています。もちろん「伝聞」でも、それが新たな研究の出発点になることはありえます。しかし、それが「研究」であるからには、内容の確認作業が不可欠です。仮に百歩譲って、内容確認が不可能だったため、仮説として提示されたとしても、その事実発見が他人の見解に依拠していることを明示すべきでした。「ふたたび論」で初めて荻原氏は「ワイゲルト、ユダヤ人説」は下野博・立風書房社長〔当時〕の発言であったことを明らかにされました。果たして下野氏は「『舞姫』再考、エリス、ユダヤ人問題から」の公表を了承されていたのでしょうか。

　第二に、研究者であるならば、相手の論稿を正確に読み取るべきです。しかし「ふたたび論」は、何と私がWeigertはユダヤ姓であると認めたとして、次のように主張しています。

　しかし私は、「ワイゲルト、ユダヤ人説」が成り立ち得ないことを明確に記しています。すなわち Lars Menk編 A Dictionary of German-Jewish Surnames、つまりドイツのユダヤ人姓について長年の研究を基礎に編纂された辞典に基づいて、問題のWeigertもユダヤ人本来の姓ではなく、南部および中部地域のドイツ人の姓であった。その語源は「weigen」(拒む)の意をもつ男子の名であり、それが姓に転用されるようになったことを指摘しているのです。要するに、ワイゲルト姓も、ユダヤ固有の姓などではなく、もともとはドイツ人の姓だったのです。とうぜんのことながら、ワイゲルト姓のドイツ人も存在します。論争相手の文は、もっと「隅から隅まで丁寧に」読むべきものです。

　第三に、「ふたたび論」は、自身の主張の内部に明白な「論理矛盾」をはらんでいる事実に気づかず、他人の論理矛盾を批判しています。すなわち、荻原氏は、本来の論争とは無関係な藤咲憲一氏に対し、次のようにユダヤ人の定義について教えをたれています。

　ユダヤ人についてのこうした定義を信ずる人が、他方では『舞姫』のエリスの姓はワイゲルトだから、エリスはユダヤ人で決まりだと述べています。「舞姫」のヒロインの父親がワイゲルト姓で、ユダヤ人に多い職業の仕立職人であるとしても、氏自身の定義にしたがえば、エリスがユダヤ教徒であったことを論証しない限り、「エリス、ユダヤ人説」は成り立ち得ないのではないでしょうか。

　第四の問題は、再三にわたり林の単なるモデル探しは文学研究とはなんら関係がないと断言されていることです。私と共同研究者である小平克は、後述するように、単なるモデル探しだけをしているわけではないのですが、その前に、「モデル探し」は文学研究とは無関係な分野なのかを問いたいと思います。もしそうした主張が正しいとすると、作家論は成立し難いでしょう。仮に成立したとしても、痩せ細ったものになるおそれがあります。そうした一般論はさておき、ここであらためて、私どもの「エリーゼ探し」の意図について述べておきます。

　鷗外がドイツ留学から帰国してから「文づかひ」を発表するまでの二年四ヵ月は、鷗外の生涯にとってもっとも波乱に満ちた年月でした。エリーゼ・ヴィーゲルトの来日、赤松登志子との結婚と離婚、『しがらみ草紙』の創刊、『東京医事新誌』主筆就任と罷免、「舞姫」を始めとする初期三部作の発表、等々の諸事件です。これらの諸事件を「舞姫事件」と呼び、その解明を目的に「〈舞姫事件〉考」を執筆しており、「単なるモデル探し」と呼ばれるいわれはありません。エリーゼの実像を探ることにより、「舞姫事件」が鷗外文学に与えた影響の一端を明らかにしうると考えての研究です。「エリーゼ来日事件」の真実を探ることは、「舞姫事件」の一側面であり、その解明は鷗外文学の解釈にとって不可欠な作業であると考えています。

　エリーゼの実像を探ることが、作品理解に寄与した一例を挙げれば、それまで解釈が困難で、鷗外の遊びとみられたこともある「我百首」が、エリーゼ来日に関わる一連の事件を詠みこんでいたことを探り当てたことです。第二六首「すきとほり真赤に強くさて甘き Niscioree の酒二人が中は」から第三六首「接吻の指より口へ僂へて三とせになりぬ吝なりき」で詠われている女性がエリーゼであることを読み解き、その結果「我百首」は、鷗外の遊びなどではなく、彼の生涯における喜びと深刻な悔恨を結晶させた作品として、「我百首」理解に新境地を開いたと自負しています。より詳しくは、小平克『森鷗外 「我百首」と「舞姫事件」』（同時代社、2006年）をご一読下さい。さらに、小平には「うたかたの記」や「文づかひ」などとこの問題を関連させて論じた作品研究(3)があることを知っていただければ、われわれが「〈来日した女性〉の正体を暴く」といったゴシップ記事的関心から研究をすすめている訳ではないことが、明瞭になると考えます。

　最後に、本筋とは無関係のことですが、申し上げておきたいことがあります。それは、「ふたたび論」の次の文は、森鷗外記念会とその会員とを貶める言葉ではないでしょうか。

(1) 荻原雄一「『舞姫』再考 ─ エリス、ユダヤ人問題から」、『国文学 解釈と鑑賞』1989(平成元)年9月号、
(2) 荻原雄一「『舞姫』再考 ─ エリス、ユダヤ人問題から」、荻原雄一編『「舞姫」エリス、ユダヤ人論』至文堂所収、2001(平成13)年5月
(3) 『近代文学 資料と試論』8号、2008年7月、『同上』9号、2008年12月、『同上』10号、2009年6月

初出は『森鷗外記念会通信』第170号、 2010（平成22）年4月15日